私は何をするために生まれて来たのか?
私の使命は?
すべきことは?
あまりにそれを考えすぎるのも
辛いかもしれないね。
何か「こうなるんだ!」と目的を持って
生きるのも素晴らしいけど
目的がなくてはならない
わけでもないと思う。
また 目標を達成すれば
また次がないといけない わけでもないし
他人から 達成したから、君の次の目標はこうだね とか
勝手にハードル上げろと言われる筋合いもない。
そんなのに 乗らなくていいから。
乗りたい人は乗ってゲームを楽しむのもいいし お好きに。
よく 人の役に立ちたい という言葉を聞くが
それ自体は素晴らしいけど
人の役に立つように と、1番の基準におかなくてもいいと思う
それより
自分が興味がある
自分が面白そうと感じる
自分がそれが好きだから
それが最初の基準でいいと思うんだ。
じゃないと 辛くなるし長く続かないよ
いつか こんだけ私は頑張ってるのに・・となってしまう。
自分が興味がある
自分が面白そうと感じる
自分がそれが好きだから
を優先順位1番って ワガママなようだけど、
でもそれを やってくことでその道のプロになったり
それが何らかの形で 社会に貢献することになるかもしれない。
ならないかもしれない(笑
最初に結果に固執しないのもいいんじゃないかな。
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必要とされる人になる
人の役に立つ人間になる
周りが笑顔になるように頑張る
それも大切だけど
まず自分がハッピーかどうか?
みんな特別な存在 ってよく聞くけど
だからと言って 特別な使命があるとは限らない。
「自分は特別だけど普通でもある」
そんな感覚は大事じゃないかな
普通だけど 特別でもあるってことだもんね。
普通に私たち影響受けてるもんね(普通とは何か?はわからないけど)
私のおばあちゃんは普通のおばあちゃんだった
働き者で苦労人ではあったけど
その普通のばあちゃんが大好きで愛おしかった
今思えば ただ毎日 生きていた
存在してその姿を見せてくれていた だけ。その「だけ」が尊いものだった。
畑に出たり
瓦屋さんで働いたり
雨の日は雨の日なりに
冬は冬なりに
その場であるもので できる範囲で
ばあちゃんのペースで
その普通のおばあちゃんから
今 改めてたくんさんのことを学んだことがわかる。
だから普通のおばあちゃんは私には特別な存在だったということになる。
それとか、
海外に旅行に行って感動したことはない?
もちろん国内でもいいけど 常識が違う海外は特にその日常生活が趣があるよね。
そういうのって特別な人々じゃなくて
いく先々でのごくごく普通の人の生活の中に見出せる。
その日常の瞬間に
美しさがあったり
素晴らしさがあったり
発見や面白さ 感動がある
こんな風に生きているんだ
こんな文化があるんだ
こんな国民性なんだ
こんなところで毎日を送ってるんだ
だから普通に日常を送っている
いろんな国の見知らぬ人々は
私に存在を持って教えてくれた特別な人なのだ。
私たちは
何になろうと
誰になろうとしてるのか?
私でいていいし
あなたでいていいし
究極は 存在するだけでいいのかもしれない。
いや きっとそう。
だから まだ何者にもなってない と思っていても
それでもほんとはぜんぜんOK
そう自分を許せるようになってきたら
塞がってた空間が広がりだして
何か 自分が幸せを感じることに意識が行くかもしれない。
存在してくれてありがとう。
そして、いつも読んでくれてありがとうございます^^
mahalo